2014.10.13 「今こそ9条inかわさき」大集会 第二分科会【原発は人権問題だ】 福島からの発言

2014年10月13日に川崎市で開催された『今こそ9条in川崎』大集会の第二分科会が『原発は人権問題だ』をテーマに開催され、100名の参加で成功しました。

分科会では、5名のパネリストが発言しましたが、中でも福島原発事故から3年半、福島で生きる人々の生の声を伝えるために福島県から参加していただいた「生業・福島原発訴訟」原告・根本 仁さんの訴えは大きな共感を呼びました。その発言、全文を紹介します。

1.福島の今

福島県福島市から参りました根本です。大事故を起こした東京電力第一原子力発電所から西北西に65キロのところに住んでいます。事故以来、私は原子力発電所・原発を「核発電所」と呼ぶことにしていますが、事故後の福島市の現状をまず申し上げたいと思います。

まず外部被ばくでは福島県庁のある杉妻町(事故核発電所から西北西62キロ)での事故後の積算放射線量は原子力規制委員会の10月6日発表で10.3ミリシーベルト。事故から3年7ヶ月たちましたので年平均にしますと、2.87ミリシーベルト。一般人の年間外部被ばく許容量が1ミリシーベルトですから、福島市民は許容量のおよそ3倍近く浴びている計算になります。

ただし、福島市の場合は、爆発や放射性物質の大量放出(3月15日と3月21日)後の2011年3月24日以降のデータとなっていますので、3月11日から23日までのデータを合計すればもっと値は大きくなります。福島県には県内の7つの地方別のデータがあり、福島市は3月13日の午前8時からのデータが残っています。しかし、原子力規制委員会と福島県は合計したデータを作ることも、発表することもしていません。

放射能汚染の実態を小さく見せて、自らの責任も出来る限り少なく見せるためにも余計なデータは作らない、というのが日本というお国柄のお役人特有の行動パターンなのでしょう。

食べ物や飲み物、呼吸によって体内に取り込まれる内部被ばくについては、今月の新聞記事から紹介します

①福島市とその近隣の3市町で採取した「あんぽ柿」(宮内庁にも献上する干し柿の一種で水分を多く含んだアメ色の柿)と「干し柿」から食品衛生法の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出され、県はこれらの市町と生産者に柿の加工自粛を要請した。

②会津地方でも奥会津と呼ばれる柳津町で採取したホウキタケ(キノコの一種)から基準値を超える放射性セシウムが検出され、県が同町の野生キノコ全ての出荷自粛を要請した。福島県内では放射能汚染の影響が少ないといわれてきた会津地方でも山菜やキノコに今なお「基準値超え」の事例が見られます。

2.「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」 福島原発訴訟

東日本大震災・東電福島原発事故から2年後となる昨年の3月11日、国と東京電力を相手取り、800名の原告が福島地裁に提訴。9月の第四次提訴で原告総数は3865名。

提訴内容は①「原発のない元の福島に戻せ」(国と東電に法的責任があることを認めさせ、様々な放射能被害に対する法的措置や賠償を実施させる)

②「それまでは原告一人当たり月額5万円を支払え」
私は説明会に出席し、提訴内容に賛同できましたのでこの800名の一人となりました。

3.原告は「証言」を残そう

法廷は原告団の代理人である弁護団の指導の下で行動しますが、法廷外で原告ができることは何か?と考えたとき、思いついたのは原告たちによる「証言集」の発刊です。鉛筆、筆、クレヨン、絵の具と紙があれば誰にでも書き残すことが出来ることを訴え、原告団・弁護団の合同会議で採択されました。

タイトルは『わが子へ 、そして未来の日本の子どもたちへ ~私たちが今、伝えておきたいこと~』としました。原発事故による被災・被害体験や心に受けた傷などを「証言」として書くことで、自分自身の心の整理とともに子々孫々に放射能汚染のもたらす様々なことを伝えていく、ことに重点を置きました。

創刊号である第一集は、昨年の10月25日に、第二集は表紙がカラーとなって今年の7月2日に発刊しました。第一集、第二集ともに20人の方の「証言」を収録しています。法廷での原告による「意見陳述」も、法廷での証言として入っています。

4.「証言集」第一集より

福島県中通り地方の野菜栽培農家の男性の「法廷での意見陳述」の一節を読んで見ます。

『3月23日の夕方、須賀川産のキャベツなどを出荷停止とするという内容のファックスが自宅に届きました。その翌朝、父は、自宅裏の木の枝にロープをかけ、首を吊っていました。(中略)3月は、ちょうど「寒キャベツ」の時期で、7500株が育っていました。しかし、原発事故による出荷停止で、全てダメになりました。出荷停止で、育ちすぎたキャベツが、「パリッ、パリッ」と割れる音が、父が亡くなってからしばらく畑で聞こえていました。私は、その音を、「まるでキャベツの悲鳴だな」と思いながら聞いていました。』

5.「証言集」に対する感想・反響

第一集に続いて第二集を元会社の同僚に送りましたら、カンパを送ってくれました。そこでお礼の電話をしたところ感想を述べてくれました。「第一集に比べて、第二集のほうがズシンとこたえた」と彼は言いました。福島の人でもそのように話される方がいました。「証言」をとりまとめる編集長としての私の印象は、「どちらも同じほどの重さ」なのですが、どうしてそのように感じるのだろうと考えてみました。
 ひとつの仮説として、事故後の3年を境にして福島の人々はもちろん県外の人々の意識にも変化が現れているのではないか、と言えないだろうか?

最近の福島の光景として印象深いのは、住宅地に設置されている小さな児童公園。一昨年から昨年にかけていち早く除染が行われましたが、滑り台・ブランコ・砂場には人の姿はありません。まして幼子を連れたママやパパの姿を見かけることは全くありません。きれいに塗り替えられたブランコの鎖は風雪にさらされるだけでペンキが剥げ、○○年○月○日、除染0. 20マイクロシーベルト/時 などと書かれた小さな立て看板があるだけです。

さらに今年の子どもの日・5月5日前後の福島市やその周辺の町では「鯉のぼり」を見かけることがほとんど出来ませんでした。土地持ちの旧家が毎年この時期には4月から長い孟宗竹に数多くの大きな鯉のぼりをはためかせていたものですが、今年はその姿はありません。

 原発事故後3年より前の時期には、仮設住宅の劣悪な住環境に耐える人も、原発事故の収束に希望を多少は持ち続けた人も、いつ解決するとも知れぬ汚染水の垂れ流し、肝心の溶け落ちた核燃料棒がどうなっているのかも不明、除染効果に対する疑問など、不信感が積もりに積もって、丸3年を過ぎたころには心の崩壊が一気に加速したのではないだろうか、と思うのです。「放射能の罪深さ」というしかありません。放射能は目には見えず、匂いもない!このことは、東電や国がごまかしに使うにはもってこいでしょうが、被害者や原発の収束・福島の復興を目指す人々にとっては、始末に終えないシロモノといえます。日を追って希望が持てなくなる、心の支えが崩れていくことが、アルコール依存症や自死も含めた原発震災関連死の増加につながっているように感じます。

6.さらに追い打ち

仮設住宅や県内・県外への避難者には家賃無料の措置がとられていますが、雇用促進住宅など国の施設に入居している避難者への家賃無料措置を「平成28年3月で打ち切る」、との情報が流されています。原発の収束にはなんら進捗も見られず、除染をしても「放射能は移動する」ので、再除染・再々除染の繰り返しが予想され、健康被害の払拭など望むべくもないといった地域からの避難者も多くいる中で、このような家賃無料措置の打ち切りなど、認めるわけには参りません。「裁判」はもとより皆さんの声・世論の後押しが欠かせませんので、どうかお力をお貸しください。

7.7歳の「詩」 ~「証言集」第二集より~

最後に、茨城県から沖縄県に避難し、「生業(なりわい)」の原告でもある女性の男のお子さんが書いた「詩」を読ませていただきたいと思います。避難した翌年の2012年5月5日に、当時7歳だった少年が書いた「詩」です。文字はほとんどが平仮名です。



『ぼくらはあるくみちをえらんだんだ。

 がんばればちからがくるはずだ。

 ぼくらはゆめを、いいゆめにできるように

 ぼくらはあるくみちを

 すべてのみちをあるくんだ。

 ぼくらはあるくみちをえらんだんだ。

 それだけをがんばる力なんだ。

 ぼくらはがんばるゆうきが力なんだ。

 ゆうきをみんなにひろげれば、

 みんながゆうきをくれるはずだ。

 がんばればできるはずだ。

 がんばる力がくるはずだ。

 がんばれば がんばれば がんばれば

 がんばればちからがくるはずだ。』



ご清聴、ありがとうございました。

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